2009年06月25日

今日一日の関心事・疑問

はんにゃの痩せている方が「イケメン」とされてるのはどうなのか?

渋谷、穏田の地名の由来は何か?諸説あるらしいが、どれもしっくりこない。

ヤクルトを飲むと、そこに必ず何か沈殿している。あそこにL-カゼイシロタ株が密生しているような気がして、なんとももったいない。

「ハリボテ」の「ボテ」って何だ?

最近スーパーなどの駐車場に穴が空いてることが多い。不況の影響か。

コンビニで売られている「エスプレッソ」と書いてあるコーヒーは、エスプレッソではない。

♪盗んだタヌキに話しかけ

♪やーすいだけではありませんー SHOP99、9、999ー。

蛙は晴れの日、どこで何をしているのか?

口頭で「川」の字を説明する際「さんぼんがわ」と言うが、それでは馬鹿っぽい。もっとかっこいい説明方法はないか。

2008年08月22日

僕にとって2ちゃんねらーの印象っていうのは

 よく書くんだけど、僕は「いわゆる2ちゃんねらー」っていうのが嫌いで、個々が嫌いと言うよりも「2ちゃんねるに帰属意識を持った集団」ってのが気持ち悪いなあ、とか思うわけですけど。
 その嫌悪感というか違和感ってどこから来てるんだろうなあ、と考えて漠然と「ヤンキー的な物」への嫌悪感なんだろうなあ、と。ここでの「ヤンキー的」ってのは乱暴に言えば「傍若無人」というような、粗暴で、しかし女の子にはモテて、男も一目置いてるようなそういう存在ですかね。

 2ちゃんねるっていうのはもともと「ヤンキー」と親和性が低い場所でしょう、リアルでは「ヤンキー」から抑圧されている層ってのが多いと思うわけですよ。でもそういう人たちがwebに集まると「ヤンキー化」するわけですよね、粗暴になったり、リアルでは言えないような「男らしい物言い」とかしてみたりする。「リアルヤンキー」に抑圧されるような層が、webでは「バーチャルヤンキー」になるというような。

 なんで敢えて「ヤンキー」って言葉を使うのかというと、私のような元文化系童貞男子にとっては、憎しみだけじゃない感情があるわけですよね、憧憬でもないような気もするけど。第一女の子にもてるでしょう、なぜか粗暴な男って。

 で、僕はそういう感情を持ちながら、ヤンキーにいじめられたわけじゃないけどなんとなく抑圧されながら童貞をこじらせてたわけですよね。で、なんというかそういう屈折とかっていうのは僕にとってすごく重要な要素なんですよ。「ヤンキーになれなかった男」としての青年期っていうのが、今の僕にとって重要な背景だとか思うわけですよ。

 今の若い人にはwebがあるから、簡単に「バーチャルヤンキー」になれちゃうわけですよね。そういうところに違和感を持つんだろうと思う。
 ただ、僕はバーチャルヤンキーには憧れとかは持たないですね。リアルヤンキーに抑圧されながら、実際にヤンキーになれないからwebでバーチャルヤンキー化するってのは、どうもこれは家で母親に怒鳴りまくってる内弁慶のマザコンと同じようなものだと思うから。

 あまり根拠はないんだけど、僕としては、文化系童貞諸君は手軽にバーチャルジャンキー化するよりも、中高生の頃はグジグジモンモンと悩んだ方が良いと思う。そうした方が30代以降もてるんじゃないかなあ、なんて事を感じるわけです。いや、根拠はあまり無いけど。

 実生活で言えないことをwebで言う、というのは、まあwebと匿名性の素晴らしさの一つではあるけれど、そこんとこはホドホドにしておかないと、やっぱり自分にとって良くないようにも思うわけです。自分が自分らしくある、という「自分らしさ」がいびつに変容していくケースが多いんじゃないか、というようなことです。

2008年02月14日

diggin' in your virtual-vault

あんたジャージでどこ行くの: あの日あの時

 自分の過去の日記を読むのは楽しくて、たまにひっくり返して読みかえすのだけれど、面倒くさいので、そう毎日は続かない。
 blogの世界ではもうあまり新しい話題を見かけない。3年だか4年だかblogを読み続けてきて、世の中の人が何についてどう語るかという、だいたいのパターンというか形式というか、そういう物が分かってきたので、他人の書いた物からあまり刺激を受けない。
 以前からそうだったけれど、僕にとって一番面白いのは僕のblogだというようなことを思う。まあ傲慢だと言われそうだけど、ペースを落としながらもblogを書き続ける理由は、誰のためでもなく「将来それを読み返すであろう自分のため」だったりする。

 10年日記とかあるけど、ブログのデザインとして、1年前、2年前の今日の日記と、今年の今日の日記が並んで表示されるのがあったら楽しいと思う。誰でも思いつきそうだけど、そういうブログの機能を見かけないのは、比較的短期間でブログをやめる人が多いからだろう。

2008年01月23日

二つのマウスが使えるOSが良い。

 今ふと思ったんだけど、なんでWindowsにしてもMacにしても、両手に対応ないんだろう?
 両手に対応した、つまり二つのマウスに対応するOSがあればいいのに。それだけで、例えばソフトウェア・シンセサイザーの使い勝手は飛躍的に高まると思う。

2008年01月10日

マウスを押しても何も起こらないのはPCの正常動作である。

 さて、最近まで知らなかった、というか意識していなかったこと。

・たとえば「ここをクリックしてください」という表示があったとして、そこでマウスボタンを押しても何も動作しない。これは異常ではなく、正常動作である。

 こんなことに私は気付いていなかった。
 つまり、マウスというUIを使用した場合の動作トリガーは、マウス押下ではなく、ボタンから指を放すことである。
 こんなこと、常識と言えば常識であって、Macユーザはもちろん、多くのWinユーザも「無意識的に認識」していると思うけれど、しかし改めて気付いてみると、重大な発見であります。

2007年11月09日

理解・努力・諦念・受容・真摯・優しさ

 他人のことを理解しようとすればするほど、「本当に相手のことを理解すること」が不可能であることに気付く。
 そして理解を諦める。理解を諦めたからこそ、相手を「受容」できるようになる。
 「相手のことを理解しようと努力し続ける」ことと、「理解を諦めて、それゆえに相手を受容する」ことでは、どちらが真摯な態度なのだろうか、あるいはどちらが優しい態度なのか。
 真摯であることと優しいこととは違うのではないか。
 理解しようと努力し続ける前提には「私には相手のことが理解できるはずだ」という考えがあるはずで、それは私には傲慢に映る。

2007年06月25日

うわぁーヘタこいたー!

 ヘタこかぬブロガーはつまらぬ。人に醜態をさらすこともまた、ブロガーの「仕事」の一つだと思う。
 思えばずいぶん醜態をさらしてきたと思う。このブログは矛盾だらけである。
 でもそんなの関係ねえ!

 と、しょうもない落ちはどうでも良い。

 「ブロガーの価値」とは何だろうと思うのだけれど、結局それは「ブログという小窓を通して人生を覗き見させる存在」であって、少なくとも僕はそういうのがブロガーの価値なんだろうと考えているのです。
 こういうの、何度も書いてるけど。
 作家の仕事というのは恥部を晒すことだ、と言ったのは筒井康隆だったか。作家ほどの技術と発想を持たない素人にできるのは、それこそ恥部を晒すことくらいだと思う。

2007年02月17日

思考停止は「『理解』という思考終了」よりはマシだろう。

 世の中には馬鹿が多い。世の中の人間の90%はどうしようもない馬鹿だと思うが、そうだと思っていても、たまに愕然とする。

 何の観察もなく洞察もなく、思考もなく。そして学ぼうともせず。
 ただその場の感覚や表層的な言論・事象の上っ面をなでただけで、簡単に「理解した」とか言う。簡単に「理解した」というフレーズを使う人間ほど、何も理解しちゃいないのだ。
 そうやって分かった風な面をして生きている馬鹿にだけはなりたくない。

 真実というのは、常に手の届かない所にある物だ。だから僕は、決めつけをし、レッテルを貼る。「僕には分からない、だから今回はここまででやめておこう」と思考停止する。立ち止まり、そしてまたいつか、歩き出す。

2006年10月11日

忘却許可。

 忘却防止。というブログがあるわけで、これつまり、忘れないように記録するよ、ということなんだろうけれど実際は逆だ。つまり、記録するということの意味、記録する理由は忘れるためである。記録がトリガーになって「その事は、もう記録したから、あなたの頭の中からは消えても良いですよ」ということになる。だから、ブログ名としては「忘却許可。」の方がふさわしい。
 という屁理屈を思いつく。

 しかしこれはあながちいい加減な意見でもないわけで、つまり、記録媒体と検索技術の進化というのは「忘却の促進」につながっていると思うのです。IT化が進んだ今、人間が接する情報のほとんどは、その後も「手を伸ばせば届く範囲」にとどまる。だから、人間自身が記憶しておく必要はない。記録してあるという安心感から、記憶しようという意志も生まれなくなる。
 人間というのは、脳味噌の引き出しに知識を溜めておいて、それを組み合わせることによって何かを生み出すような存在なのだと思う。でも、もう溜めておく必要はない。手を伸ばせば情報はそこにあるのだから。
 でも、脳味噌にたまった情報と、脳外にある情報ではそれは全く違う。脳味噌にある情報同志は、ある偶然からつながったりする。それが人間の持つなんというか、創造力とも違う、つまり生き物故の揺らぎというかバグというか、そういう面白さなのではないかと思う。
 でも、脳外の情報というのは必然性からしかつながらない。原則的には「あれとこれをつなげよう」という明確な意志がなければつながらない物だ。
 そこから、偶然の発見を生み出そうというのはとても難しいことなのではないか。

百鬼園先生言行録―内田百間集成
百鬼園先生言行録―内田百間集成〈7〉   ちくま文庫

 この本に収められている「忘却」は、忘れることに関する興味深い考察。

・参考:Google、はてなの後、人間の脳に求められるものとは?
 ここに書いた「情報の創出」というのは、やっぱり「脳内に溜まった情報」がなければ難しいように思うのだ。

2006年10月05日

わかりやすさとかっこよさ

創価学会鈴木敏文 考える原則
 二冊の新書を買ったんだけど、こういう新書系というかビジネス系というか、こういう系列の本というのはどういうわけかジャケットが非常にださい。届いてすぐにカバーは外して捨てたのだけれど、カバーをはずしてもなんというか、ださい。よろしくない。
 セールスポイントがあまりに分かりやすいと、ださく見えるんだろうなあ。かっこいい、という事と、わかりにくい、ということは多分ものすごく密接に関わっている。わかりにくい、だからこれはかっこいいに違いない、というような幻想。それは多分、幻想なのだろうけど、そういう感覚はある。

2006年09月14日

そうやって君たちは、知らぬまに取り込まれる。
そして僕も、取り込まれるのだ。
僕はそれに抵抗する。

2006年08月29日

偽善ペットボトル

 僕は、ペットボトルを捨てる時、キャップとボトルを分ける。キャップは燃えないゴミ、ボトルは資源ゴミ。
 ふと「これって中途半端な親切心みたいなものだなあ」と思った。
 キャップは外すけど、ボトルの口に残ったリング(キャップの片割れ)はそのままだ。
 これは、本当は外さないといけないんだろう。そんなことを思いながらも、めんどくさいからそのまま捨てる。

 僕の中では「キャップを外したんだから十分だろう」と思う。とりあえず分別っぽいことはしたよ、と思う。
 でも、それはちゃんとした分別ではない。自分でもそれは分かってる。
 こういうのを偽善と言う。

 さらに僕は、ゴミ箱を見て、キャップを付けっぱなしのペットボトルを確認しては「なんでみんな、キャップを外さないかなあ」なんて事を思う。しかしそれは、「僕は外してるもんね、僕はえらいなあ」という確認にすぎない。そういう「優位性みたいなもの」を確認したいだけなのだ。
 その証拠に僕は、捨ててあるペットを拾って、キャップを一つずつ外す、なんて事をしない。

2006年08月18日

「創作」へのコンプレックス

 僕には昔からコンプレックスがあって、それは「創作」ができないということだ。絵は描けるけど、文章の創作、小説を書くということができない。
 中学生の頃の友達に、小説を書くのが好きな男がいて、彼の作品はほとんど筒井康隆の模倣だったのだけど、ものすごい量の小説を書いていた。僕もそれに憧れて文芸クラブみたいなのに入ったのだけど、結局小説は書けなかった。
 小説を通して伝えたい物がない、だから書けないのだろうと思う。プロの小説家は別として、趣味で小説を書いている人たちは、何を伝えたくて、そしてどのようにして書いているのだろうか、と思う。

 しかし、小説をブログに置き換えて考えると、どうも馬鹿馬鹿しい。どうしてブログを書くのか?と言われると答えに窮する。基本的に「なんとなく」である。「ブログを書くのが日常だから」であって、そこに特別な理由など無い。
 いや、初めはあったのだろうけど、今やそういう物、明確な動機という物はない。小説を書く人も、それが日常になっているから書いているのだろうな、と思う事にする。

2006年08月02日

夏休みおとなスペシャル

 この事はいつか書こうと思っていたんだけど、今までなんとなく機会を逸していました。で、まあ夏だし、開放的になってみて、公開というか種明かしのような事をします。

 それは、以下の記事を書いた理由についてです。
2006国際ブログ大賞を受賞しました。

 この記事は、普通のネタとして受け止められ、それなりに受けたのですけど、実はこの展開というのは、元記事である「国際ブログ協会設立および会長就任のお知らせ」を書いた時点で決まっていたのです。この会長就任は、自分で自分に賞をあげるための準備だったのですよ。

 で、その大元はというとこの記事になります。
Seesaaブログセレクションに勝手に選ばれた。

 この記事自体もそうなんだけど、結局この一連の記事というのは「誰にも権威づけされないことに不満を持っている自分」のパロディーなのですよ。
 様々なブログコンクール、一般的に認知されたメディアに取り上げられた事ってないわけですよ、いまだに。そういうのを「寂しい」と思う自分がいる。また一方ではそういうコンクールなんかを「くだらない」と思う自分もいる。
 そういうのって馬鹿馬鹿しいというか滑稽だなあとよく思っていて、じゃあドクター中松みたいに自分に自分で賞をあげればいいや、と思ったんですね。だからこの一連の記事というのは確かに「自分に自分で賞をあげる」というネタなんだけど、それ以前に「権威への愛憎を持つ自分のあさましさを笑う」という事でもあったのです。

 いや、それだけなんだけど。

2006年07月31日

ナンセンスでグダグダな美学についての文章

 僕にはセンスが「ない」のだという事を少し思う。
 デザインについて、blogデザインでも、日用品でも部屋の内装・家具にしても、僕が好むのはシンプルな物だ。シンプルな形状、青・茶・黒・灰色という保守的な色合い。
 装飾をそぎ落とす事によって生まれる美や心地よさが好き。それは決して「センスが悪い」ということでもない。しかし「センスが良い」わけでもなく「センスがない」という事なのだ。

 そぎ落とすのは誰にでも出来る。それは単純に「不要な物を捨てる」という事だから。それはセンスではなくて「判断・思い切り」の問題。
 美しい物を求める、のではなくて醜い物を捨てるという事。これはセンスではないんじゃないか。

 「センスが良い」というのはもっと違う、そのように思う。
 嫁はオブジェやら草木やら、色々な物を飾る。そういった「無駄な物」を組み合わせて心地よい空間を作り上げるというのがつまり才能なのだと思うのでした。そぎ落とす事に才能はいらない、積み上げて、無駄を重ねて美しい物を作り上げる、そういうのが本当のセンスなんだろうなあ、とか思う。

2006年07月14日

落差

 探偵ナイトスクープだったか、「オープンカーに乗っている男はいけてない」というテーマを扱ったテレビ番組があったような気がする。
 乗りたい車と、自分のキャラクターとのギャップが大きいと、恥ずかしい結果になる。

 Skypeを扱った報道番組で、盲人がSkypeを楽しんでいるシーンが流れていて、僕は正直「気持ち悪い」と思ったのだった。盲人だから、というのが主な理由ではなくて、それまで無表情で、どちらかというと沈鬱な表情だった人が、ヘッドセットを付けた途端に笑顔になり、「〜ぴょん」とかいうニックネームを使いながらハイテンションな会話を始めるのが気持ち悪かったのである。
 自分が見せる陰の部分と陽の部分があって、その境目を思いっきり見せられると気持ち悪い物だと思う。

 文章を書く時に結構気にするのもこの辺で、例えばリアルの知人が僕のブログを読んでいて「あいつ、あんな人間なのにこんな事書いてるのか、痛いなー」と思われるのはとても恥ずかしい。だから実際の自分に近い文章を書こうという気持ちはあります。つまり自然体で書くということ。
 高校生の時とかは、身の丈に合わないハイテンションな文章を書いていたように思う。

 そんな事を考えた。

2006年06月28日

ブログとサイトと更新について

・何か調べ物をする。Googleで検索した情報にアクセスする。
・大きく分けて、ブログかそれ以外のサイトに行き着く。
・その情報が最新でない場合がある。
・ブログなら「ああ、古い情報じゃないか」と思うだけ。
・そうじゃないサイトなら「なんだよ!更新しとけよ!」と思う。
・動的なブログよりも、静的なサイトに対して「最新の情報に更新しとけよ!」と強く思ってしまう。
・これはなぜか。
・単純に「更新年月日表示の有無」かと思ったけど、そうでもない。
・ブログは「最新記事」ありきのもの。アウトプットの基準は最新記事。過去記事は飽くまでも過去記事。
・サイトは、それぞれのページがアウトプット。すべてがアップトゥデイトされているべきもの。
・ブログにとって更新とは何か、なぜ更新するのか、何のために更新するのか。

2006年06月16日

松本人志から関根勤へ(辛口ブログに関するメモ)

コトバノツドイ - 辛口ブログの意図

 うーん、なるほどなあ、鋭いなあ、と思った。それだけに最後の一文は要らない。なんか「えへへ」って感じだから。
 そういえば最近「自称辛口ブログ」を見る機会が減ったな。「毒を吐いています、注意!」とかいうナヨナヨしたブログもあまり見かけない。

 いわゆる「辛口」のブログに面白さがあるのは、ただ単に「攻撃性があるから」ではないんですよね。みんなが気付いていないような、意外な問題点を見つけ出して、そこに突っ込むから。
 面白さの本質は「攻撃性」ではなくて「着眼点」にある。松本人志の著作が支持されるのと同じ事でしょう。

 それを真似しようとして、バカが「自称辛口ブログ」を書こうとするとどうなるか。肝心である着眼点の面白さ、独創性がないから、結局「みんなが悪く言ってる物を、俺も悪く言う」だけの物になる。
 あ、それってみのもんたか。そう考えれば、みのもんたってテレビという「アホをメインターゲットにした、双方向性のないメディア」ならではの人なのかも知れない。
 で、web上で「みんなが悪く言ってる物を、俺も悪く言う」ってことをやってもね、それは大勢の中の一意見として処理されるだけで、誰も注目しない。つまらないもん。

 で、考えてみるとですね、意外な問題点に着目してそれを攻撃する人っていうのはブログに限らず沢山いてるんですが、「意外な美点に着目してそれをほめる人」って、なかなかいないんですよね。タレントで言うと関根勤でしょうか。対象を観察し、他の人が気付いてない「面白い部分」を取り上げる人。
 そういう人ってなかなか見かけないんで、それが出来たらすごく注目されるんじゃないかと思います。新規参入するならこっちの方がいいんだろうな、と。
 ただ、この場合も「着眼点」が重要ですからね。何でもかんでもほめればいいってもんじゃない。それじゃあグルメタレントと同じですから。彦磨呂がどんなに目を丸くして「味のWeb2.0や!」と言ったって、誰もそれを真に受けないのと一緒です。

2006年06月15日

30代以降の「反省」はどうあるべきか。

最近の反省。人の話をよく聞いていないような気がする。

・反省してどうするのか。
・「反省して、それを直します」が優等生的な答え。
・つまり「今後は、人の話をよく聞くようにします」
・まあ、正解。
・反省を元に「自分を変える」ということ。

でも、30歳を超えて自分を変えられるのかいな?と思います。僕はもうそういうの、あきらめてます。

・だから、反省点があれば「僕はそういう行動を取る傾向にある」という意識を持つ。そういう事実を把握しておく。
・つまり「僕は人の話を聞かない傾向にある」という把握。
・話の最後に再度、要点を確認しましょう、会議が終わったら記録には目を通しましょう、それによって、聞いてなかった分の情報を補っておきましょうね、というようなこと。

・少し話が飛ぶけど、エゴグラムなんかも結局は「自分の把握」のための物だと思う。「あなたにはこういう問題があるから、直しなさい」ではなくて「あなたは、周囲からこう見られている可能性が高いですよ」ということ。直すか直さないかは人の勝手。

2006年06月05日

祇園祭

 昔、学生の頃に偶然、京都の祇園祭を見たことがある。
 その頃って京都の駅ビルが景観を壊すというので色々揉めた後だと思う。
 あの駅ビルもひどい物だけど、それ以前に沢山のビルによって京都の景観なんて破壊しつくされていて、町のメインストリートは立派に醜悪だった。
 ビルとビルの間の狭い空に、山矛が見える。チリンチリンと鐘を鳴らしながら、文化が踏みにじられているような町を行く。
 その様子、文化が殺されつつあり、かといって経済的に栄えているわけでもない京都という町を、それに気付かないふりをして進んでゆく山矛を見て、僕はどういうわけだか泣けてしまった。
 滅びゆく物特有の美しさを感じたのだと思う。
 日本というのは滅びゆく国なのではないかと思う。僕の愛国心というのは多分そういう部分に発露する。日本という国がいかに滅び、いかに死んでゆくのか、美しく朽ち果ててくれるのだろうか、それを見たいとも思う。

 この記事を読んで、国、あるいは愛国心について考えた時に、そんなことを思い出しました。

2006年05月24日

知は本当に人間を解放するのか?

 押井守が「インターネット嫌い」って言っていて、それも意外だったんですけど「僕はスタンドアローンな人間でいたいので」と続けていたのが面白かったです。
 知ることとは快楽でもあるけれど、拘束であり不自由になることでもあるのかも知れないです。そう考えるとギリシャ哲学者なんてしょうもないなあ、とも思えてくる(笑)
 よく知らないけど、脳みその中身も、いろんな細胞がいろんな線でつながってるわけでしょう。多分、知るとか記憶するっていうのは、細胞と細胞のつながりを多くしたり、強くしたりすることなんですよ。そうすると、分子の結合と同じように、硬直化するわけですよね、変化する余地がなくなる。
mixiで、他の人の日記に書いたコメントの一部
 書きながら自分でトンデモ論法だなあ、と思っていたのですけど、でも、あながち間違いではないのかも知れない。人間は知ることによって合理性や効率性を獲得できるかも知れないけど、自由を得ることはできないのではないか、とか。じゃあ、自由ってなんなんだよと言う話になるか。社会思想とかの話になってしまうのか?そういう自由じゃなくて、なんだろう、なんか、「自由な感じ」の話なんだけど。なんか最近、こう自分の考えとかが何かに収束されつつあるというのかなあ、固定されつつあるというか、そういう感覚。
 ああ、そうか、大人になると誰でもそうなる。だから自由でありたい大人はドラッグをやるのか。でもそれも安直だしな。それに多分僕はドラッグ向きの体質じゃないからやりませんよ。

2006年02月17日

思考ログ

昼休みに歩く往復10分の道。
歩くと思考する。
そのためにも歩かなければいけない、人間は。

往路、寒いので身を縮めて歩きながら。
ここ数日、暖かい日が続いたので道ばたの南天など見ながら、
暖かくなると、植物を見るような余裕が出るものなのだな、と思っていた。
寒くなると、肩を丸め、足元を見て歩く。
思考も内向的になる。
気温が肉体に与える影響、そして肉体の状態は精神に影響を与える。
そして脳味噌もまた、肉体の一部である。

復路、ドラえもんのことなど思う。
のび太という人物が、昔からどうも気に入らない。
何故だろうと考えると、やはりその向上心の無さである。
すべてドラえもんに頼る。自分で努力しようと思わない。
こんな男と結婚するしずかという女はバカだという結論に至る。

同僚に「しずかという女はバカだと思う」と伝えた所、彼の答えは、
「あの女は、ドラえもんを利用するためにのび太と結婚したのだ。したたかな女だ」
なるほどそれもまた、穿った見方というモノである。
しかし、結婚した時もドラえもんはまだいたのだったか。
そういえばあの漫画の最終回で、ドラえもんは未来に帰るのではなかったか。
のび太はその後、大変な努力をしたのかも知れぬ。
だとすればその努力は大変な物だったのではなかろうか。

確証も何もなく、憶測と邪推で色々と考える。
このように取り留めもなく思考していることを文字にするのは、気の遠くなる作業である。
過去ログ
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