全然+肯定:全然大丈夫は全然だいじょうぶ - 手記
漱石や芥川の例を出すまでもなく、広辞苑でも大辞林でも誤用とはされていない。つまり「全然+肯定は誤用である」という説自体、正しいとされていない(権威づけされていない)。
なので、上に書いてある
日本語の歴史で極最近の何十年間かのことを日本語として正しいと言い、それより以前の日本語を否定できる根拠はどこにあるのだろうか。日本語の乱れを指摘して日本の伝統を守ろうなどと言っている人たちが、実は極最近の乱れた日本語を日本の伝統だと思っていた皮肉である。あたりの批判は的はずれと言ってよろしかろう。
全然+肯定を「誤用だ」と言っている人は「辞書も引かぬ大馬鹿者」か、あるいは「独自の日本語観を持った異端」かのどちらかになろう。いずれにせよ「正しい正しくない」という範囲の外にいる人、と言って良いのではないかと思う。
言葉の誤用について深く調べるというのは良いことだと思うし、使用法の変遷について調べるのは偉いと思うのだけれど、僕が嫌なのは、そういう偉い仕事が結局「馬鹿の言い訳」に使われるという部分なのですね。
馬鹿は言葉の誤用を指摘されると決まってこう言う。
「言葉の使い方は時代によって変わるんだから、いいじゃないですか」
「通じればいいじゃないですか」
「じゃあ、あなたは歴史的にこの使用法が常に間違ってたというのか」
こういう方便を言う馬鹿が、特にweb上には掃いて捨てるほど居ますね。言葉の用法が移り変わる、という事実はこういう馬鹿者どもに悪用される。もうそれが堪らん。
いや、当然、調べる人に罪はないが、なんというか辛抱ならんわけです。
さて僕自身は「広辞苑とNHKが言っている日本語の使い方が正しい」と思っています。非常に権威主義的です。そして大人というのはそうあるべきだと思っています。
ああ、あと正しいからと言って常にそれに従うべきだとも思っていません。山口瞳がそのようなことを書いていましたが、すべてを正しく遂行する人間というのはイヤミです。
「金gold→実質」と「お金money→流通量」の性質を持ってますから、議論には整理が必要でしょう。
貨幣紙幣に金のような本質的価値を求めるのは無茶ですし、金は物との交換の手間が面倒ですし。
僕は言葉の移り変わりに対しては、あんまり反感を持っていないのです、というか仕方のないことだと思いますが、バカによる言い訳の定型句になってるというのが、なんとも我慢ならないですね。