2007年11月09日

理解・努力・諦念・受容・真摯・優しさ

 他人のことを理解しようとすればするほど、「本当に相手のことを理解すること」が不可能であることに気付く。
 そして理解を諦める。理解を諦めたからこそ、相手を「受容」できるようになる。
 「相手のことを理解しようと努力し続ける」ことと、「理解を諦めて、それゆえに相手を受容する」ことでは、どちらが真摯な態度なのだろうか、あるいはどちらが優しい態度なのか。
 真摯であることと優しいこととは違うのではないか。
 理解しようと努力し続ける前提には「私には相手のことが理解できるはずだ」という考えがあるはずで、それは私には傲慢に映る。
この記事へのコメント
まったく仰る通りです。そういう「理解の壁」の絶望的な高さを感じられない人に限って、相互理解だの共存だのと軽く口にする。そんなヘラヘラしたヤツらとだけは共存したくない(笑)。
理解し難いが、殺しはしない。そういうことが本当に尊いと思う。さらに言えば、理解し難くても殺さないのは、理解できなくて不愉快だけれど仕方なく認める、面倒だから放置する、相互不干渉にしておく、といった要素以外に、理解できないからこそ面白そうだし放置してみる、という素晴らしい一面があるはずです。今度自分のとこに書きます。URLは以前関連事項を話題にしたエントリです。
Posted by at 2007年11月09日 15:19
私が本当に何かに関心があるなら、それについて少しでも理解できればうれしいはずです。さらにもっと知りたいと思うはずです。ましてや、「完全に理解すること」が不可能であると気づいて諦めるなんてことないでしょう。まず自分のことを理解すべきです。そうすれば、自分は本当は他人に関心がないことに気づくはずです。それに気づくと瞬間的に自分は「他人に関心を持とう」とするかもしれません。その反応も見逃さずチェックするべきです。それが自分で檻を作ってその中に自分を投獄する瞬間です。そうやって自分を理解していけば、だんだん他人と自由に接するようになっていくと思います。
Posted by あ at 2009年10月22日 23:40
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