2006年05月31日

修辞としての「間違った日本語」

 例えば敬体と常体の混合、重複表現、同一物を指す複数の表記、こんなことが僕のブログではしょっちゅう起こるのですが、それは推敲していないことに加え、それがブログだと思っているからです。こう言うとおこがましいような気もしますが、間違った日本語を修辞として使っているわけです。
 他の人もそうだとすれば、ブログから、その人が日本語のルールを知っているか否かを判断することはできない。
 でも、ビジネス文書を読むと分かりますね、その人が最低限の日本語を使えるかどうか。で、十中八九、出来てないね。あと契約書ね、契約書を書かせると、その人の能力って大体わかりますよ。まあ、これについては全く書けないですよ、大方の人は。
 最近、ブログで乱れた日本語ばかり使っているので、自分の日本語能力が低下してるような気がする。要注意。
この記事へのコメント
意識的に敬体と常体は織り交ぜてますね。そのほうが文章にリズムが出るから。
同じものを異なる表記で表すというのは,SEO的にちょっと意味のあることだと思っているので,あえて統一させようとはしていませんね。
流れに任せて書くほうが,すんなり読める文章になるということもよくあります。雑文はそれでいい。それがいい。
Posted by (今日は)麦 at 2006年05月31日 22:56
■麦さん
 でも、ブログの文章ってどうしても「上品な文章」にならないんだよなあ。これは単純に僕の文才の問題なのだと悲観的になります。
 日記とか小説のような「語りかける対象のない文章」や、手紙のような「特定の相手に語りかける文章」は美しいと思う。ブログのように「不特定多数に語りかける文章」は、どうも通俗的で、実は僕の好みではないのかも知れません。

 僕は常々、レストランで出されるような「不特定多数のための料理」は基本的にはダメな物で、自分が作るにせよ家族が作るにせよ「自分のために作られた料理」を食べるべきだと考えているんですが、文章にもそれを求めているのだろうか。
Posted by LSTY at 2006年06月01日 10:06
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
過去ログ
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。