押井守が「インターネット嫌い」って言っていて、それも意外だったんですけど「僕はスタンドアローンな人間でいたいので」と続けていたのが面白かったです。書きながら自分でトンデモ論法だなあ、と思っていたのですけど、でも、あながち間違いではないのかも知れない。人間は知ることによって合理性や効率性を獲得できるかも知れないけど、自由を得ることはできないのではないか、とか。じゃあ、自由ってなんなんだよと言う話になるか。社会思想とかの話になってしまうのか?そういう自由じゃなくて、なんだろう、なんか、「自由な感じ」の話なんだけど。なんか最近、こう自分の考えとかが何かに収束されつつあるというのかなあ、固定されつつあるというか、そういう感覚。
知ることとは快楽でもあるけれど、拘束であり不自由になることでもあるのかも知れないです。そう考えるとギリシャ哲学者なんてしょうもないなあ、とも思えてくる(笑)
よく知らないけど、脳みその中身も、いろんな細胞がいろんな線でつながってるわけでしょう。多分、知るとか記憶するっていうのは、細胞と細胞のつながりを多くしたり、強くしたりすることなんですよ。そうすると、分子の結合と同じように、硬直化するわけですよね、変化する余地がなくなる。mixiで、他の人の日記に書いたコメントの一部
ああ、そうか、大人になると誰でもそうなる。だから自由でありたい大人はドラッグをやるのか。でもそれも安直だしな。それに多分僕はドラッグ向きの体質じゃないからやりませんよ。
西洋と東洋の違いというのもすごくあると思うのです。
乏しい知識と印象から言うと、西洋の思想で求められているのは「完璧な知」なんですよね、ただこれは単なる知識という意味ではなくて、世の中の理屈というか、僕は幾何学のような物だと思っています。世の中がどう動いているのを完璧に理解する、その仕組みを解き明かすのが「知」で、そこに行き着くために勉強をする。
対して東洋思想では、「解脱」っていう言葉が表すように、仕組みから抜け出るのが究極の姿なわけですよね、「無」というのもそう言うことだと思う。知ること、理解することは、その過程ではむしろ邪魔になるんじゃないかと思う。
だから「知」に理想を見ないのは東洋的な考えなのではないか、と思います。ユタカさんの考え方は、まさにそういう印象です。
僕自身は、どうもよく分からないままでいます。