でも「あ、俺のココは変なのかも知れないな」という感覚は持っていなければいけない。こういう所は「一般的に見て」変なのかも知れないということだけ、なんとなく把握していれば良い。それを把握さえしていれば、別に「変」でも構わないと思う。
困るのは、自分の変な部分を自覚せずに、それが普通だと思い込み、社会生活で「変」なことを平気でする人。さらに、それを他人に押しつけたり。
これは迷惑だし、結果的には本人にとって損だと思う。
結局、そういう人って「周囲を見て、そこから自分を判断する」ってことをしない。そう考えると、よく言われる「空気読め」につながるんだけど。
よくアーダコーダ言われるのが「『空気読め』という言い草の是非」なんだけど、是非もへったくれもない。空気の読めないやつは「損」をするという事だと思う。
空気の読めない人が「空気読め」という表現を批判し、「俺が正しい!」と言えば言うほど、その人は「バカだ」「ピチガイだ」と思われる。
つまり、正しい正しくないではない。単純に「損」なのだ。
日本では、昔から社会が個人に優先する。「いや、個人が優先するんだ!」という人はバイバーイ、ニューヨークにでも行きな、である。日本人の価値観を改革するんだ!という理想を持っているのならともかく、今の社会における己の不遇を、「空気読め」批判にぶつけても空しい事だ。
以上のような事を、あるブログでの揉め事を見ていて、「荒らし」と「批判」の違いは、なんだろう?と考えながら思いました。
「正しいか正しくないか」という事以外に、「変か変じゃないか」という価値基準もある。それが良いか悪いかではない。それが確かに「ある」と意識する事が大事だと思います。