あほだら経というのは、社会の外にある物。だから社会への批判が可能になると言うものなんだろうなあ。お坊さんというのは社会の外にあるんだけど、じゃあなんで、普通のお坊さんは社会を批判したりしないのかなあ、とかふと思った。お坊さんは多分「俺だけが解脱できりゃ良いんだい!」とは思っていなくて、「他者を救いたい」って考えているはずなんだけど、どうやって他者を救うのがお坊さんなんだろうか。
輪廻にせよ「死後裁きにあう」にせよ、死後の世界を云々するのは、現世を美しくするためなんだろうなあ、とか。
まあとにかく僕はこういう事に疎いので、少し勉強しようかと思いました。偉そうに語るためにではなく、なんでそんな物を人が求めるのか、ということを思うために。
「死後しばきにあう」というのがあります。
この世に生まれてくるとき、あちらの世界の人は泣きながら送り出すのだそうです。この世は苦しみでいっぱいだから。そして、この世の人は笑顔で迎える。
死ぬときは、その逆。
私は、この話がわりと好きです。
「死後、司馬徽にあう」
「死後、司馬懿にあう」
「死後、司馬師にあう」
三国志ファン限定ねたでお送りしました。
なるほどなあ。いい話過ぎるなあ。
私は「この世の人は笑顔でむかえる」という部分に、何となく絶望感みたいなものを感じました。
個人の悩みを打ち明けても、所詮、綺麗事で上手いこと説き伏せられてしまうだけなので、
坊さんの説教聞いた後は、なんとも言えないモヤモヤ感が残るものです。
結局、自分の悩みを救えるのは、
自分しかいないんだなって痛感しましたし、
坊さんも、俺の心を完全には読みきれていなかったので、
所詮、ただの人間なんだなってのを感じました。
僕自身は「無宗教」なんですが、以前から宗教的なものに関心があります。
うちの父の親戚には真言宗と浄土真宗の寺の住職がいます。その人たちを見て、というわけでもありませんが、お坊さんの姿を見て、その言葉を聴いて、宗教を理解しようとすると間違うような気がします。
生前、プロテスタントの信者だった作家の三浦綾子が「人を見て宗教を信じようとすると、必ずつまずく」というようなことを書いています。ひと口に信者やお坊さんといってもいろいろな人がいますから、そういう人たちを見てその宗教を判断しようとすると、誤解が生まれやすいということのようです。
またひと口に「仏教」といっても、宗派ごとに拠って立つ教典も、教えも違いますので、いっしょくたには出来ないようにも思います。
法華経とか浄土三部経あたりの有名な経典は解説書みたいなものもたくさん出ていますし、親鸞の教えを書いた『歎異抄』などは、信じる信じないはともかくとして、面白い「ヘリクツ」が読める読み物として、僕はけっこう好きです。
お初にて偉そうに失礼しました。
ちなみにその坊さん、受験前に御祈祷に連れて行かれたときにはかまのしたからジャージが見えてありがたみが減った気がした。坊さんもやっぱ人間だなと思った一瞬でした。
むしろ「死をおそれるな」ってことなんじゃないのかなあ。
そうなのかい?
多分、今のお坊さんって「行事を執り行う専門職」というカラーが強いのだと思いますね。日本人にとって仏教って、宗教というよりただの行事だし。だから、お坊さん自身も「宗教ってなんだろう?」なんて考えていないと思う。
憶測ですが。
西洋の宗教も東洋の宗教も、結局は「世界とはどういう物か」っていう、いわゆる哲学なんですよね。科学の根源というか、終着駅である「真理」について考える物であって、「人」を敬う物ではない。
宗教史上の偉人というのも、「あの人はここまで考えた、偉いなあ」ってことですよね。「俺はあの人の言ってる事が正しいと思うよ」っていうのが宗派ですよね。でも信仰対象は「真理」であって、人ではない。
「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」という川柳がありますけど、キリスト教もイスラム教も、究極の信仰対象は同じなんですよね。
心頭滅却してないなあ(笑)
死後サーバ機にあう