2006年03月20日

友達に貸した「ハットリ君」は、友達の母親に捨てられた。

 ここここをちらっと見て。
 大事にしてる物を嫁に捨てられたら、その時は凹むだろうし怒るけど、別にその後は気にしないなあ。
 「昔ああいうのを持っていたなあ」と思い出す事はあるだろうけど。
 僕は物持ちの良い方だけど、そして物に対する執着心が強い方だと思っていたけど、実はそうでもないのだろうか?
 捨てられようが燃やされようが、「かつて持っていた物」は「自分の一部」の様になっていて、物が無くても別に良い。
 プッチの時計じゃないんだから。
 それは、先日書いた「捨てることとか」に関係するのだろうか。思い出のある物を、敢えて捨てた思い出。それは確かに寂しい物だが、「捨てなければよかった」とは決して思わない。
 物っていうのは、所詮過去なんだよね。未来に向かって、これから生きてゆくにあたって「絶対に必要な『物』」なんて、ほとんどないのではないかと思う。あったとしても、その多くは「形のない『物』」なんじゃあなかろうか。
 僕は、自分の脳味噌と、本と、紙と鉛筆さえあれば楽しく生きてゆけるんじゃないか、と思うのです。
この記事へのコメント
 俺は使うものを捨てられたら気にするでしょうけど、集めてるだけのものならたぶんなくなってもなんも思わないでしょうね。結局邪魔になって捨てるものって多いですし、コレクションは集めることが楽しくて手に入れたあとはどうでもよくなってしまいますし。
 まあ、祖父の形見とか捨てられたらきれるじゃすまないでしょうけど。
Posted by 小樽 at 2006年03月20日 21:21
■小樽さま
 物に対する愛着とは何なのか?という事を考えると面白いですね。人間特有だし。
 多分、動物(猿とか)が道具を使ってゆく中での進化の過程はこんな感じ。

1.道具を使う(使い捨て)

2.道具を保管し、繰り返し使う

3.同じ道具を使う事で、使い慣れる

4.道具に愛着を感じる

この3.から4.へっていうのはすごい飛躍です。この間には何があるのか?
なんなんでしょう。
Posted by LSTY at 2006年03月23日 13:22
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