僕は今まで駄洒落を使った釣りタイトルやら、閉鎖を装った釣り記事を書いてきたのだけど、書いてある気持ちや悩み、愛情や苦しみは、嘘でもなんでもない。冗談やヒッカケは沢山あるけど、しかし嘘は言わない。
何度か書いているけれど、僕は近田春夫の「嘘は言うけどホントだぜ」という言葉が好き。完全なネタとして言葉を繰り出すほどに、僕は器用ではないし、また、完全に本心を吐露してしまうほどに不器用ではない。
ここに書いてあることは、僕の「表出した一部分」に過ぎないし、それは常にとても恣意的なものだけれど、しかし、それは「嘘」ではない。
上記のようなことを書いてしまうこと自体が、すでに無防備な気もするけれど、それくらいの温度が、今の僕にはちょうど良いような気がするのです。
つか、変じゃないのか? いやわからない。
まあ、いいや。
わたしはfaintmemoryさんのコメントは、すごくいいと、思った。
「偽善」って言葉で片づけちゃうのはもったいないのに、って思った。
>内面の吐露を装って、しかし、その奥では、その記事に集まるであろうコメントやブックマーク、あるいは慈しみの言葉を想定している。
引っかかったのは、ここかな、と。
これは、自虐的な客観視の一種、と思うんですけどね。
オマエがやってることなんて、こうだよ、と自分で自分を虐める、みたいな。
そうやって、オノレを見つけようとしている、みたいな。
と、とったんだけどね、ワタクシ。
「ほっほっほ」という感じだった。
「釣りかよ」って怒ってもいいんだけど、「偽善」って自分の言葉を否定したら、もったいないのに。
そのくらい、いいコメントだったのに。
って思ったんだけどな。
今度は「ぽん」か…。
朝日新聞が広告で使っている「言葉を信じたい」みたいな台詞にはもうウンザリしているのです。言葉をスポイルし続けたアホが、よくもまあそんなことを言うな、と。
言葉の、表現の裏には必ずなんらかの気持ちがある。より多くの人の目にさらされる言葉の裏には、多分、邪念がある。
読まれることを前提として文章を書くというのが少し自分の中で気持ち悪くなってきています。
あのコメントは、単純に嬉しかったのですけどね。
「邪念」成功。
「多くの人」は意識しなかった、たった1人にだけ有効ならよかった「邪念」、成功。
>あのコメントは、単純に嬉しかったのですけどね。
コレ、しょっぱなで言っちゃうのは、LSTYキャラとして、「違う」。
でも、本人がコレ、言わないと、ダメ。
しかも、「邪念」抜き、または最小のタイミングで。
ってことで、引き出し、という「邪念」。
成功。
ガッツポーズ!
「意図はあったが、ホントだぜ」。
今度は「ち」か。
faintmemoryさんの二つのコメントについては、もっと色々思うことがあるのです。でもそれを云々するのは失礼だと思うし、なにより答えを出すのではなく、考え続けることが大事な問題だなあ、と思った。
だから少しだけ書いたのです。